アメ子と息子の海外不登校体験と解決の手記

 

一人息子の登校拒否の時期は14歳から15歳の間 世間で言う中学生の時でした。
無事高校入学時に合わせて、登校を再開し、以前のように学校を休むことは全くなくなりました。

なぜわたしの子供は登校拒否になったのか?
直接的な原因と間接的な原因と分析
子供の様子を書いていきたいと思ってます。
わたしと夫の育て方、しつけへの半生も書かなければなりません。

息子はわたしが26歳の時、関東地方で生まれ、4歳でアメリカに夫の仕事の関係で移りました。
アメリカはカリフォルニアで、息子は非常に元気にスクールに通っていて、毎日楽しいと言うことをわたしに語っていたのを思い出します。
アメリカの学校でのびのび(本人談)育つ。
悩みといった悩みもなく、毎日が充実していて、友達をうちに呼んだり、呼ばれたり、かなり活発な子供だった。

ちょうど日本の中学の入学式の1ヶ月前ぐらいに父親の仕事の関係で帰国。神奈川県の中学に。
息子は帰国を非常に嫌がった。
もともと父親になついていなかったため、反発を感じたようです。
日本語は普通レベルで話すことができていたのですが、本人にとって中学校生活はすごい違和感を感じたよう。
ほどなくからかい、エスカレートしていじめの対象にあうように
日本の中学校は閉鎖的でオープンじゃなく、のびのび自分を出せなくなる。
出したとしてもすぐ潰される。調子に乗っているといわれ、押さえつけられる。
クラスのいじめっ子に目をつけられたそうです。
アメリカ方式の生活になれている息子はそれだけ目立っていて、鼻につく存在だったらしい。
特にそのいじめっ子以外にはいじめの対象となっていなかった。
でもそれは最初だけの話で、一度いじめの対象にあった子供は、別の子供の餌食になってしまう。

いじめは陰湿なやり方でじめじめしていて、学校の先生がいないときにやられた。
最初は反抗したり、反論したり、正々堂々とこいと言ったそうですが、それが逆に生意気ととられいじめがエスカレートしていきました。
もう個人の力での解決ではどうしようもなくなり、息子は担任に訴えました。
それでも、サラリーマン的なその担任は放置していたそうです。
どこか生徒を恐れていて、問題が起きるのがいやで、そっけない態度をとると子供は言っていました。
いじめる人間よりも、そういう大人が許せなかった。
自分を出せないのはこういう担任や先生のせいだと思うように。
いじめも担任が放置または黙認しているととられると、他の生徒にもやられるようになった。
人間不信が強くなる。
プライドをズタズタに傷つけられたようです。
それでも、必死に歯を食いしばって中学に通っていました。
しかし、個人の力ではもうどうしようもなくなったそうです。
私たちは、息子がいじめられているとは思ってもいませんでした。
一人で孤独で戦っていたのです。

日本に引っ越してしまったばっかりに、すべてが逆転してしまいました。
子供はアメリカに戻りたいとこぼすようになる。そうすればすべてが解決するといいます。
あれほど元気で遊び回った息子が、次第にネットゲームにはまるように。
英語が話せるため、ますます虜になっていった。アメリカ人と話すのがこれ以上なく楽しかったらしい。
わたしはネットゲームの怖さを知っていたため、パソコンやゲームを巡って口論が絶えなかった。
次第に現実逃避の気を帯びてきた。
つらいこと、きついことから逃げるようになる。
もう心が耐えられなかったそうです。
学校でも家でも自分の居場所がない状態です。

学校の生活だけで心が傷つき、誰も助けてくれないのに(私たちに相談しなかった)何をやる気にもなれない。
将来が閉ざされた気がして、勉強をやる意味を見いだせず、仲の良い友達もいじめを受けている息子と距離を置くようになる
それもショックだったようだ。人間不信が高まっていきました。
時間とともに自分の殻に閉じこもっていった。
非情な現実を直視したくないため、ネットゲームに走るという悪い流れができあがってしまいました。
そこだけがホッとできる居場所だったからです。

中学二年生になってから登校拒否になりました。
夫は相変わらず息子に対して愛情がうまくつたわらない言葉の投げかけをしていました。
息子はそれに反発を感じ、冷戦状態が続いていました。
夫はしつけのつもりで、よく子供を殴ることをしていたため、子供はすっかり父親を嫌っていました。
わたしはわたしではやく学校に通ってもらいたいため、ときにはヒステリーを起こして、子供を追いつめていました。
このわがままな息子をどう扱うべきか、まったくわからず袋小路に陥っていました。
夫は、根性がないなどと封建主義的な考えをそれでも息子に押しつけようとしていました。
時に頭をはたいたり。
わたしも息子のほおを思いっきりはたいたこともありました。
どれだけ息子の心は悲鳴を上げていたことでしょうか。

スクールカウンセラーは様子をしばらく見てくださいといっても、わたしには時間とともにますます子供の心が死んでいくのがわかり、何かないか? 何かないか? そればかり。
ホームスクーリングをしたり、登校拒否児の集まる適応指導学級に通わせたりしていました。
適応指導学級に通わせたことは、息子のプライドを傷つけました。
それも知らず、わたしは無理矢理連れて行ったんですが、息子に言わせると、自分は適応できなかったんじゃない、あいつらが悪いんだというばかり。
適応できない人間というレッテルを貼られたことがショックのようでした。
これ以来、急速に息子はわたしにも反発を態度で示すようになりました(それ以前から子供の心をわかってやれない私のことに戸惑っていたそうです)。
わたしの言うことをまったく聞かなくなりました。
だけど、わたしはどうしていいかわからなかったです。
息子のためを思って、どこかに通わせても、子供は反発するだけ。
不登校中でも、気分の波があるらしく、わたしはその気分の波を読めず、振り回されていました。
夫と息子を巡って口論が絶えませんでした。

アメリカの学校に行かせるかという話になりました。
その話を聞くと、息子は乗り気になり、アメリカの父親の弟の家から通わせることになった。
わたしたちは、しばらくアメリカに移動することはないため、高校になったらまた日本に戻ってくるという約束で。
希望を胸にアメリカに旅立った息子。
悪夢は終わり、これから本当の自分を発揮できるはずだとホッと胸をなで下ろしました。

しかし息子は心の傷を抱えていました。人間への恐ろしさと不信感を。
日本人、アメリカ人がどうということは関係なく、教育方針への違いに戸惑ったことはあるにせよ、人への恐怖感は根強く残っていた。
そんなトラウマを抱えて、アメリカに戻ったとしてもどうなるだろうか
一抹の不安がありました。
それでも希望をもった息子を見たのは久しぶりだったので、楽観的に考えようとしました。

最初はアメリカの学校に入ることができ、非常にうれしかったようです。
わたしたちも、このまま日本にいて潰れるよりは、とその知らせにホッと胸をなで下ろしました。
日本に適応できなかったのも、あちらの生活が長いんだからしょうがないと思っていた。
でも、アメリカ人の押しの強さが、自信の喪失だった子供にとっては逆に負担になったようです。
ひどいことをいわれたらしい。
たぶん小学生の頃は、ひどいことをいわれても言い返していて、精神的にわだかまりは残っていなかったんでしょうが、人間不信と自信喪失のため、深く心に突き刺さったようです。
自分がいじめられる存在だと気づいてしまったこと、自己への不当な過小評価で、ダメージとして残りました。
違和感を感じ始め、アメリカでも無理なのか? と子供はショックを受けました。
日本でも、最後の安住の地のアメリカでも集団の中でうまくやっていけない。
もう教育方針や国民性は関係なくなっていたということですね。
どこでも潰れてしまう、もろい心しか持っていなかったのです。
さまざまなことをうけとる本人の内部の心理の問題になっていました。
エネルギーを使い果たしていたのです。

日本の中学でのいじめと疎外感と人間不信が、パンドラの箱を開けてしまった感じでした。
日本でもアメリカでも、どこにでもひどい人間はいる。
その中で生きていかなくてはいけないけれど、傷つきもろくなりやすい人間だと些細なことでも落ち込んでしまう。
まさにパンドラの箱でした。

アメリカでも自信を喪失してしまって、アメリカの家で閉じこもるように。
将来と自分へ希望が全く持てなかったそうです。
そのままいてもアメリカに意味がなくなり、息子は日本に戻ってきた。
やはり親元においていた方が良かったし、心に問題を抱えた子供を叔父の家庭において迷惑をかけるのも駄目だと思ったから。
結局再度日本でもひきこもってしまった。
英語を生かして仕事をしたいという夢も砕かれ、何も希望を見いだせなくなったようだった。
よりひどい自信喪失を抱えてかえってきたようなものです。
アメリカでの経験を通して、自分という存在を肯定できなくなり、だめ人間だと決めつける言動が増えました。
ただアメリカの生活は何かの悪夢だと思いたかったらしく、常に出てくる悪口は、日本の中学のいじめっ子や担任、父親向けばかりでした。
子供の将来が心配でたまらなかったです。
アメリカで人間関係のいざこざがあったとしても、まだアメリカの方が息子にはあっているんじゃないかと思っていました。
日本に早く戻しすぎたかなって。
わたしも後悔の連続でした。

でも、もう一つ問題がありました。今までが登校拒否の直接的な原因なら、家庭の問題は間接的な原因です。
わたしの夫と息子が折り合いが非常に悪いこと。
まともに二人は話し合ったことはありませんでした。
息子はわだかまりが父親にかなりあった。憎しみに近いくらいでした。
父親は一方的、強圧的、封建的に息子に接し、ちっとも息子のいうことを受け入れませんでした。
わたしもいけなかった。夫に寄り添うような発言をして、しらずしらず息子を傷つけていたのです。

父親は話し手も命令口調でしたが、その父親(息子の祖父)もそんな人間だったので、複雑な心境です。
父親なりに愛情があるにせよ、息子は受け取る心の余裕はありませんでした。
あとでわたしに語ったことによると、時には殺意まで持っていたそうです。
ニュースで、父親への反発で、家を放火したとか刺したという報道が流れると、すごく共感できたそうです。
それほど父子関係は崩壊していました。お恥ずかしい話ですが。
しかし、父親が経済的に一家を支えています。それを息子はよく知っているため、ますます心は鬱屈していきました。

昔はだからこそ学校だけが楽しい場であったはずなのに、どこにいっても彼に居場所はなくなりました。
ネットゲームの中だけでした。
そう思うとどれだけ息子が追いつめられていたか背筋が凍ります。
ああ、あのときにああやっていればよかった・・・もっと何かいい育て方はなかったのか?
期待をかけすぎていました。
母子関係は、息子もなついてくれていましたが、心の問題が発生したときに、わたしの無理解を見抜き、距離を置くようになりました。
それでも、養ってくれる存在はわたししかいないので、逆に依存は強まったと思います。
だからわたしが息子の心によりそわないと、急に不機嫌になりました。
時間とともに荒れるようになってきました。
どうにか立ち直らせたい。もともとやる気も能力もあった息子なだけにどうにかしてやりたかったです。
子供の感情をくんでやれなかったことが返す返すも残念でなりません。

もうそろそろ中学も卒業する年齢になっていました。
高校からは何とか通わせたい。それなら遅れを取り戻せる。
勉強だけは遅れないようにやらせていたため(それに英語が得意だったためそれに関しては心配ありませんでした)、それに希望をかけていました。
環境と年代が変われば、また元の通りになるんじゃないか。
しかし、息子は学校に通わず、 通信制でいいと言います。
自由な空気を吸える大学だけ行くと言い張っていました。
人と接することなく、青春時代をすごすと集団になじめず、社会生活もなじめず、底辺の生活しかできなくなると危惧していました。
中学はたまたま周囲の人間に恵まれなかっただけ。
あと日本の教育方針にもあわなかっただけ。
今度は違うと思いこもうとしました。
いま思うと必死だったと思います。
アメリカの失敗は何かも間違いだとわたしも息子も思おうとしました。
そう、何かの間違い。現実逃避でした。
心に負った傷はほったらかしでした。

そのころ、インターネットでいろんな不登校支援施設を調べていました。
そこで目についたのが岩波先生がやられている不登校/ひきこもり克服プログラムでした。
多くの体験記と支持率の高さ、先生の言葉や話を眼にするにつけ、これなら息子も変わってくれるという希望が芽生えました。
わたしと同じ心境の人がたくさんいたことや、子供たちが立ち直っていく様に心動かされました。
一番眼をひいたのは、日本一の潜在意識と無意識のプロ、天才とか鬼才とかカリスマと言われていたことでした。
通われている人も、会社の社長クラスやプロスポーツ選手、芸能人、海外の人などいるそう。
日本でもたくさん北海道や沖縄から通ってきているくらいすごい人だと言うことで、そこまで遠くまで通わせることができるんだから本物だと思いました。
早速メールや電話をして、岩波先生とコンタクトをとることに成功しました。
多くの体験談に書かれてあるように、とても忙しい身なのにもかかわらず、親切に対応してくださりました。
事情を話したところ、先生の診断はとても納得できるものでした。
ものすごく心の問題に精通しているとわかりましたし、パワーのある声質や説得力、頭の鋭さ、カリスマ性に魅了されました。
息子をこの方に相談してもらおうと決心しました。
でも問題はそこから発生しました。

先生の不登校/ひきこもり克服プログラムに通わせようと夫に相談したところ、宗教だの詐欺だ、悪徳商法だ、子供の問題につけ込み信用できない、最悪だ、料金が高すぎると難癖をつけ始めました。
勝手で一方的なものいいにさすがにわたしも腹が立ちました。
そんなことは実際これっぽちもなかったです。
ただ事情を知らない人だとそういうんだろうと考え、わたしも感情的にならず、冷静に夫を説得しました。
次第に夫も認めるようになってきて、最初の一回は一緒に行くといいました。
それだけでも骨が折れたのに、一番の問題は子供でした。

子供を岩波先生の不登校/ひきこもり克服プログラムに通わせることが決定し、子供に告げました。
絶対イヤだという返事。そんなところいかない、うるさい、だまれ! ほっとけ! などなど……
無理矢理でも通わせようとわたしも感情的になりました。
一方的な押しつけ、上からの命令口調でなんとか説得しようとしましたが、ますます意固地になっただけでした。
これはまずいということで、再度先生に電話しました。
岩波先生から、最初の電話の時に、子供への伝え方を教えてもらっていたのに、わたしは子供の身になって説得をしませんでした。
とにかく必死だったので、早く先生に会わせなければいけないという思いだけが強く、大失敗しました。
息子への説得の仕方をあらためて教えてもらいました。ほんとうに先生には申し訳なく思いましたが、背に腹はかえられませんでした。
どういうことかというと、親の勝手な考えを押しつけない。
子供の心情に寄り添って、立場を認める。
上から目線で子供に接しない。
親の正解は子供の正解じゃない。子供が思っている正解に寄り添うこと。それは親がプライドや信念を捨てること。
愛情をもって、真正面から駆け引き抜きで、親子ではなく生身の人間として向き合う、などです。
やっと息子はしぶしぶですが、通うことに同意しました。
(どうやればいいのかは先生に電話の際に絶対聞いて、それを実行してください。それを誤ると子供は絶対通わないと言い張ります。わたしは運が良かった方です。一回失敗しても再度説得がきいたのですから)

親子三人で岩波先生に会いましたが、一番心配だった夫は息子をおいて帰るとき、あの先生はたいしたものだとすっかり認めていました。
わたしも同意でしたし、やっと探し求めていた人に巡り会えたことに希望が胸一杯に膨らんでいました。
岩波先生と不登校/ひきこもり克服プログラムの感想は別ページで書きたいと思います。

息子は心の傷を克服していき、高校に通うことへの恐怖感も減っていきました。
また自分の存在を認めてもらったこと、同席した方からのアドバイスや経験談(その人も不登校を経験していた人です)をもらって、不安や恐怖への対処法や、トラウマ解消のプログラムをこなしていくうちに、顔色が晴れてきました。
次回先生に会うことを楽しみにするようになり、人間関係の構築の技術や武器を教えらもらって、自信を回復、増強していきました。
具体的にはわたしがプログラムを受けたわけではないのでわかりませんが、息子の様子を見れば通わせて良かったです。

高校から学校に通う勇気も持つことができ、すこしばかり傷ついても平気と言い張るようになりました。
もうあんな悩みに陥ることはないと思うと聞いたときの頼もしさはうれしかったです。
その言葉を聞いて、息子が不登校や心のうやむやを克服したと感じました。
高校に入って、一学期、二学期とすぎても、学校を休むことは全くなくなり、友達もたくさんできるようになり、逆に学校が楽しいと言うようになりました。
先生もその変化や頑張りを褒めていました。
中学校3年間で忘れていた楽しさや感激というものを取り戻させてくれて本当に感謝しています。
それも一歩間違えれば、あんな素晴らしい先生にわたしの説得のまずさによって、通うことすら不可能になっていたかと思うと、改めて親は子供にどう向き合うべきが教えられました。
また幸い、息子が成長し(たぶん岩波先生とのカウンセリング・コーチングで教えらもらったんでしょうが)、父親もああなのは、おじいちゃんがいけないんだというくらいに理解を持つようになりました(かといって夫も変わる努力をしなくてはいけないです)。
息子は父方の祖父が大嫌いだったので、それに育てられた父親というものも納得いったんでしょう。
すごく大人になりました。
あらゆる問題にも冷静に対処できるようになり、遊びもバイトも勉強(語学と歴史)も楽しくなったそうです。
あの先生に出会って良かった、それがわたしと息子の一致した意見です。
よかった、本当に良かったと思います。


 

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